駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

劇団チョコレートケーキ『ガマ』

 吉祥寺シアター、2025年6月3日19時。全席指定前売5,000円。

 ひとりの軍人(岡本篤)とふたりの沖縄県民が逃げ込んだガマ。負傷した少尉は、部下を見捨て民間人を見捨てて退却し、その上死ねずにいることに苦悩している。野戦病院に動員されていた少女(清水緑)は「聖戦」を信じ抜き、少尉を助けることが御国のためと必死に看護する。少女を助ける教師(西尾友樹)は、軍の命じるまま教え子とともに動員されていた。病院豪に薬を取りに行った少女が、ふたりの兵とその案内役を務めている老人(大和田獏)を連れて戻ってくる。アメリカ軍の気配が近づいてきて、ガマに釘付けにされる6人は…
 脚本/古川健、構成・演出/日澤雄介。2022年初演、全一幕。

 ふたりの兵士は青木柳葉魚、浅井伸治。
 前回は「戦争六篇」として上演され、そのうちの唯一の新作だったとのこと。このときも上演自体には気づいていたかと思いますが、重く思えてひるんで観劇に出かけなかったように記憶しています。今回はそのうちの一作だけの再演だったので、チケットを取ってみました。宙全ツ遠征で30年ぶりに沖縄に行って、ひめゆり平和祈念資料館や轟の森で怖くて悲しくて爆泣きしたのに、つい先日もどこかのしょうもない大臣がしょうもない発言をしていて、しかしたいした責任も取らずのうのうと政治家を続けているようだったので、ますます市民の側がちゃんと学んで考えていかないとホント国ごとどうにかされてしまう…と思えた、というのもありました。なのでミュージカル座の『ひめゆり』再演も観る予定です。

 セットというか装置は四角い八百屋の床が二面と、箱のようなものがふたつ置かれているだけのシンプルなものでしたが(舞台美術/長田佳代子)、六人の役者がちゃんとそこを狭そうに、ぎくしゃくしながら上り下りするので、ちゃんとごつごつした岩の洞窟に見えるのでした。靴の裏に滑り止めがあるのか、安全配慮としては正しいのですがそれがときおりきゅっと鳴るので、リアリティをやや削いではいましたが…
 一幕ものですが、ときおり暗転による場面転換はあり、六人それぞれの回想場面なんかが挟まれて、演劇としてよくできていました。そして過剰なところはなく、抑制された端正な芝居で、でも迫るものがありました。主宰の日澤氏は「軍人、民間人を問わず戦争はあらゆるものを不幸にします。その苦しみを実感して頂くために物語を演出しました。表現が適切かは分かりませんが、正直な気持ちです。/この物語は、当時沖縄で何が起こったのかを検証する物語でもあり、今も続く戦争がもたらす未来の物語です」と書いています。お、重い…しかしこの六人は、いろいろな立場の人々をそれぞれ上手く代表しているような存在になっていて、いろんな角度から戦争が捉えられていて、本当によくできた物語、作品になっていると思いました。
 老人の回想場面がないのは、そういうものはもうみんな全部乗り越えて飲み込んである種達観しているところがある人物だからかもしれないし、裏表がない人物だということでもあるのかもしれません。彼も息子3人とも兵隊に取られ、それぞれ違う戦地で亡くしている、ということは会話として語られます。
 兵士ふたりもひとまとめではありましたが、一等兵と二等兵ではちょっとスタンスや意見が違うところもあり、そういう描写もとてもよかったです。そして彼ら下士官と将校も、戦争に対するスタンスが違う…しかし今さら新鮮に感動したのは、彼らが軍人として、民間人に対する責任や区別をきちんと持っていたことです。そして本土の人間としての、沖縄県民に対しても…
 本土! 小さな離島から大きな本島を指すような、本州とほとんど同じイメージの言葉かと私は漠然と考えていたのですが、でもやはり違うのでしょうか…でも九州が、四国が、北海道が本州を本土と呼ぶかな? いわゆる日本列島はひとかたまりのようでいて、それでもいろいろ分断があったことを思うと、日本国の歴史的な成り立ちについてもいろいろと考えざるをえません。
 沖縄県立第一高等女学校、略して一高女の学生で、学徒動員された安里文は、劇中で何度も「沖縄は日本です」「沖縄県民は立派な日本国民です」と叫びます。それは叫ばないとそう認められない状況を表しています。今の目で見ちゃうと、日本になんか入らなくていいよ、そんなにまでして入ろうとする価値があるほどのもんじゃないよ、琉球王国は素晴らしいものだったんだよ、独立した存在だったんだよ…など言ってあげたくなるわけですが(この「あげたい」という意識も問題なんだろうけど)、彼女はもう王国が併合され、琉球藩にされ沖縄県にされ、皇民化教育がされ標準語励行がされた以降の暮らししか知らないわけで、それでも差別があり、つい出てしまううちなーぐちがあるからこそ、こう叫ばないではいられないわけです。その悲痛さよ…!
 周りの大人は、彼女を庇護されるべき子供としてきちんと扱いつつ、彼女を決して「文ちゃん」などとは呼ばずに「安里さん」と呼びます。そうして尊重しつつ、しかし彼女がそう育てられてしまっていることの痛ましさをひしひしと感じている。そう仕向けてきたのは自分たち大人であり、軍人三人からしたら自分たち本土の人間のせいだからです。ダブルスタンダード、アンビバレンツ、嘘と建て前と真実と…
 彼女の看護の腕前はたいしたものだし、凜々しく勇ましく、勇気があって弱音も泣き言も吐きません。若いし体力がある、というのもある。強い。それでも学生です、子供です、本来は守られるべき存在なのです。学徒動員なんて、ましてこんな女学生まで駆り出してやる戦争に、勝ち目も未来も意味もない。成人男性たちはみんなわかっているのです。彼女をそうさせてしまったのは自分たちだけれど、そんな彼女を救いたい、死なせたくない、自分たちも死にたくない、だから投降しよう…そういう話なのですが、そのせめぎ合いのドラマに胸揺すぶられました。
 信じてきたものを手放すのは、怖いし無念だし、今までのことはなんだったんだ、と虚しくなる。信じ続ければ世界が変わるはずだと信じ抜いてきたのに、自分が変わらないと世界は変えられないんだ、となるコペルニクス的転換…そりゃ簡単じゃありません。でも「ぬちどぅたから」、命は宝だ、というのは絶対的真理です。誰にでも命はひとつだけ、失われた命は決して戻らない。命あっての物種、死んで花実が咲くものか…大事な発想です。
 ガマを出ても、そこから先も大変だったかもしれない。それでも…
 そうして彼らが繋いでくれた命を、大切に生きたいし、あくまでも国は人のためにあるのであって人が国のためにあるのではない、ということは改めて肝に銘じるし周りにも訴えていこう、と思ったのでした。

 私の母は昭和20年生まれですが、戦後ではなく、その2月の生まれなので、終戦時は乳飲み子でした。横浜の田舎の生まれで、そのときはさらに田舎に疎開していたのかもしれませんが、ともあれそこで劇中にあったように、赤ん坊の泣き声にいらだった誰かに布でも押しつけられていた日には、私は当然生まれなかったわけです。恐ろしすぎます。命は儚く、もろく、かけがえがなく、尊い。戦争はすべてを破壊します。この国は戦争を放棄しました。それは貫かなくてはなりません。行きたい人や行かざるをえない人はいるのかもしれないけれど、誰かに行かせるだけの人なんて認められません。私は憲法変更に反対です。改正だなんて言いたくもない。まず今の憲法を完全に遵守できてから言え、と思います。
 すべての戦争に反対します。そのためにできることを、わずかでもしていきたいです。