スーパー歌舞伎『もののけ姫』(新橋演舞場)7月7日16時の回を、まず3階最前列どセンターのお席で観て参りました。ありがとう團子会…! 七夕の夜に團子アシタカに会いに行って、タタリ神として射貫かれたワタクシ(笑)。視線バッチリでございました。
イヤしかしよかった! めっちゃコーフンしたし、なんなら泣きました。一幕90分二幕100分、まったく退屈しませんでした。私は歌舞伎もスーパー歌舞伎も全然たくさん観ていませんし、なんならジブリもそれほどたくさん観ていませんが、しかしコレはイイ!と断言できます。初日からこの日まで満員御礼となっているようで、おかげさまで(?)8月分のチケットもバンバン売れていて残り少なくなっているようですが、あるところにはあるものなので(^^;)、ちょっとでも気になった方は是非なんとかして観てみていただきたいです! 私も次の観劇が楽しみすぎます、次はもっと花道がよく見えるお席のはずなので…さらに千秋楽近くにもチケットを抑えてある自分GJ!と過去の自分を褒めたいです。何度でも観たい、あの森に行きたい、そして「会いに行くよ、ヤックルに乗って」と言われたい…!! はー、エモエモのエモでした!
そもそも私はハヤオ信者ではあまりなくて、ジブリ映画で観ていないものもけっこうありますし、『もののけ姫』も多分映画館では観ていないと思います。なんかそそられなかったんだと思う…なのでテレビ放送時に数回見ただけだと思いますし、そのたびに「これってそんなに名作なんだろうか…」とずっと思っていました。私の見方が悪いのか、私にはこれがなんの話なのか、何を表現している物語なのかがよくわからなかったのです。
だって、たとえばボーイ・ミーツ・ガールものでくっついてハッピーエンド、みたいな話ではないじゃないですか。あるいはタイトルロールはサンだけれど、彼女は森に捨てられた生け贄で山犬として育っていて、でもやっぱり人間、しかも少女なのです。それが例えば救われて、文明社会に復帰してハッピーエンド、というようなお話でもない。サンは森に帰ってしまう。でもそれでいいのか? そのまま山犬として生きていけるものなのか? 彼女は獣ではなくあくまで人間なのに、人間社会に背を向けて幸せなのか? そして、森の獣たちと里でタタラ場を営むエボシ御前たちが戦っていて、まあ自然と文明とか動物と人間の対立とかってテーマはわかるけど、でも私たちは文明社会に生きる存在じゃないですか。私たちは森では生きていけない。森や山を切り開き、木を切って田畑にし、火を起こして鉄を、プラスチックを作って生きている。だから私たちはどちらかというとエボシ派で、でもエボシさまは敗れて右腕を失ってしまうじゃないですか。勧善懲悪、ってのとは違うかもしれないけれど、でも人間って、文明って自然に、獣たちに負けちゃうものなの? そりゃ自然破壊は良くない、環境破壊は例えば温暖化みたいな現象になって文明社会を破壊しに来ている。だから共存は絶対に必要だ、でもこの物語は…え、ディダラボッチって、シシ神って結局ナニ? これはナニがどうオチていることになっているの…??
といったあたりが毎度私が抱く感想で、なんかよくわからん…といつもなってしまうのでした。
でも、この舞台を観て、わかった。説明の台詞が丁寧に足されているようで、人によっては煩わしいとか理屈っぽくなりすぎたと感じるのでしょうが、理屈っぽい私にはこれがシンデレラ・フィットしたのでした。やっと意味がわかった! そして今までほとんどミームとしてしか捉えられなかった「曇りなき眼(まなこ)」とか「生きよ、そなたは美しい」とかの言葉の意味がやっと、やっとわかったのでした。そして号泣した…! そんな観劇体験になりました。
原作を深くリスペクトし、宮崎駿が描いていたことをよく汲んで、上手く舞台化した脚本家(丹羽圭子、戸部和久)の手腕に脱帽しましたし、二世市川猿翁が創世したスーパー歌舞伎のスピリットをしっかり受け継ぎ、受けた薫陶を大事に大事にして「師ならこうしたはず」と常に考えて考えて、ついに新作のスーパー歌舞伎を仕立てた演出家(横内謙介、上演台本も)にも、最敬礼したいです。映像やプロジェクション・マッピングなんかでもっといろいろできちゃうだろうところを、歌舞伎だからこそのあえてのアナログな人力でやっているところもとても好感が持てました。ナウシカ歌舞伎のときはあの音楽が和楽器で邦楽として演奏されることにとても感動しましたが、今回は久石譲のオリジナル音楽がほぼそのまま流れるのもとても良きでした(録音/日本音楽集団)。スーパー歌舞伎は「歌舞伎仕様の現代演劇」だそうなので、邦楽にこだわりすぎていないのかもしれません。でもツケはある(附打/大谷琢人)、これがまたイイ! もちろん和楽器もここぞという効果を上げていて、それもイイ! 台詞はほぼアニメのまま、つまりほぼ現代語です。まあ時代設定としてはなんちゃって室町時代だそうですが、これもわかりやすくてとても良きですね。
原作ファンがファースト歌舞伎として観るには絶好なのでは…ホント、たくさんの人に観ていただきたいです。そして、私もまだまだ浅瀬でちゃぷちゃぷしているだけですが、是非たくさんの人に歌舞伎沼に浸ってほしい…映画『国宝』からでもなんでもいい、知らなかった新しい世界を知ることはホント楽しいことですよ、と強くお誘いしたいです(^^)。
筋書によれば、1997年公開の原作アニメ映画はまだスタジオジブリができる前の80年に企画されていたものだとか。時代冒険活劇を目指していて、しかしいろいろあって時代劇であることとタイトル以外はほぼまったく違う内容の作品に作り直したんだそうです。
「中世の枠組みが崩壊し、近世へ移行する過程の混沌の時代 室町期を、二十一世紀にむけての動乱期の今と重ねあわせて」描く、「世界全体の問題を解決しようというのではない。荒ぶる神々と人間との戦いにハッピーエンドはあり得ないからだ。しかし、憎悪と殺戮のさ中にあっても、生きるにあたいする事はある。素晴らしい出会いや美しいものは存在し得る」と、95年脱稿の企画書に書かれていたそうです。
この趣旨はすごく理解できます。それを私は映画からは読み取れなかったんだな…それを、アシタカの「分からぬ。だが、共に生きることはできる」という台詞から、「分からぬ事は面白き哉。今や暗い未来は想像しやすく、分からぬ事が恐ろしい。だから今、『もののけ姫』が上演される」と語る脚本家の手で舞台化されて、やっと私に伝わったのでしょう。今、もう一度、アニメを見直したいものです…
そもそも、アシタカが蝦夷の若者だということを、私は理解していたのであろうか…?
ヤマトとの戦いに敗れ、東と北の森の奥に隠れ住むエミシ。そこにイノシシが迷い込んでくる。単なる暴走した獣ではなく、凶暴なタタリ神になってしまっている。誰かが石火矢、つまり銃で鉛の礫を撃ち込んでいて、その痛みや怒りがイノシシを変えてしまったのです。アシタカが退治する。しかしタタリ神から呪いを受けて、右腕に痣が残る。彼もまた呪われたものとなってしまったので、村を出ることになる、というかほぼ追放される。いずれは族長となるとも目されていた少年なのに…彼は呪いを解く方法を見つけるため、そして獣をタタリ神に変えるような人間の愚かな行動を止めるため、西へ向かう。カヤだけが見送り、玉の小刀?を渡す…
…そうだったのか! なんかこの前提がそもそも理解できていなかった気がするよ私…そしてこのカヤがくれた贈り物をのちにアシタカはサンにあげてしまうので、女からもらったものを他の女に渡すなどヒーローとしてあるまじき行為!と視聴者からさんざん糾弾されてきたかと思いますが(笑)、なんかねー、舞台で観ると、團子ちゃんがやると、贔屓目かもしれないけど全然スルーできたんですよね(笑)。團子アシタカはホントまっすぐなので、それはある意味で何も考えていないとも言えるんだけど、カヤに対しても色恋の感情があったかは怪しくて、ただ案じてくれている好意をそのまま受け取って、お守りとして身につけ続けて、それはもうすっかり自分のものになってしまったので、だから自分がサンを案じる心を乗せてサンにそれを渡しただけなんですよね。いやぁこの絶対的ヒーロー感、ホント素晴らしかったです…!
だってタイトルロールはサンなんだから、これはサンの物語でサンが主役で、なのにアシタカ團子がファーストクレジットで主役をやるってのはオトナの事情すぎないか? たとえば團子ちゃんが女方としてサンをやるって線はなかったのか? とかまで考えちゃったんですよ、私。少女漫画を宝塚歌劇にするときにヒロインの相手役の男性キャラを無理やり主人公にするような、それほどむりくりではないにしてもやはりどうなの?みたいなのを勝手に案じていたのですね。
でも、サンは意外と出番がない。そして実はなかなか共感しづらいキャラクターです。森に捨てられて山犬に育てられて獣の自覚を持つ少女だった、という経験のある観客はなかなかいないはずだからです。サンのように人間を嫌いきることも難しいですよね、だって私たちは人間なんだもの…
だから、これはアシタカの物語なのでした。彼は状況に流される中で火の粉を払ったり、やむなく何かを選択しているだけで自分から動いているようには見えないところはあるし、芝居としても受け身だとは思います。一番能動的に動いているのはエボシさまなのかな? それでも、アシタカが繋ぎとなってすべてが動いている物語なんだな、ということもやっとわかりました。
ヤマトでは、人々が森を切り開いて暮らしている。タタラ場、つまり製鉄所はヤマトではそう珍しいものではないようですが、普通は女人禁制で男たちが働いている。でも、タタラを踏むことはもちろん肉体労働ではあるけれど、男性でないとできないというほどの重労働ではない。大人数が息を合わせて根気強く長時間続ける必要があるので、そういうことはむしろ女性の方が得意かもしれません。エボシ御前は自分のタタラ場では女たちに働かせて、タタラ場を男子禁制にしている。男たちはみな牛飼いで、田畑の世話を担当しているのでしょう。女たちは自分たちの仕事に誇りを持っていて、鼻っぱしらが強く、男たちを尻に敷いている。エボシは遊女では食えなくなったような年嵩の女たちを助けるためにこうし始めたのかもしれません。自身が女性であるということもあるけれど、彼女はとても優れた為政者で、よそよりずっと進んだ自治体を作り上げているのでした…
これも私はちゃんと理解していなかったかもしれません。エボシさまの里だけが特殊なのではなく、この世界では女たちが働き、女の地位が男より高いのだと思っていた気がします。じゃあジコ坊たちだのアサノの侍たちだのが男ばかりなのはなんなんだ、って話なのですが、私はそのあたりもよく理解していなかったのでしょう。
エボシは、みんなが感染を恐れて忌み嫌う癩病患者たちも保護して、仕事を与えている。まあ仕事といっても銃を作らせていることには問題があるかもしれません。優しい憐れみというよりは功利的、現実主義的なところもあるのでしょう。でも現代の視点で見ても、素晴らしい優れたリーダーです。
でも、アニメはなんか悪女ふうじゃないですか。クシャナとかもそうだけれど、清濁併せ呑んで王道を突き進むような強い女は、悪く描かなくちゃいけないって男社会の法則があるんですか?とか言いたくなります。なので私はこのキャラの立ち位置もよく理解できていなかったんだと思います。
エボシの里はシシ神がいる森に近く、モロ一族、そしてサンとの小競り合いが続いている。人間/文明と動物/自然との対立…そこに簡単な正解はない。もちろん森や動物たちの方が人間が社会を築き始めるよりずっと以前から存在していたのであり、優先権があるのかもしれない。後発の人間はわきまえて、端でそっと生きさせてもらうことに甘んじるべきなのかもしれない。でも人は言葉を話し、文字を操り、火を手に入れて発展していく…その欲望はもっと、もっとと暴走していく。
言葉は、森の獣たちも持っていました。彼らもまた神を持ち、言葉を持っていたのです。でもだんだんも言葉をなくして闇落ちしていく獣たちが増えていっている。乙事主が盲目的どころか真に盲目になって、突進していってしまうのはその一例です。そんな、サン対エボシの戦いに、アシタカが割って入る…
一方で、森を取り戻すために愚直に木を植え続けている猩々たちがいる。あるいはミカド、あるいはアサノの暗躍…そういったことが絡み合ったドラマだったのです。それであのラストに至るのでした。
「会いに行くよ、ヤックルに乗って」
ヤックルはアカシシという獣で、森に棲むものではなく、人の家畜となって長いのでしょう。乗騎として人間に使役され、飼われ、馴れて懐いて、もう言葉は話しません。でも人の言葉をわかっているようではある。どうやってかはわからないけれど、サンはアシタカに関する話をヤックルから聞いています。坊主憎けりゃで人間に関するものはなんでも嫌い憎んでいそうなサンも、ヤックルのことは嫌がらない。里の人間と森の獣のあわいに立つ、こういう存在がいるのです。
だから、サンは森で生き、アシタカはエボシのタタラ場の再建を助けて里で暮らすことにしても、会うことはできる。離れて暮らしても、想い合えるし、ヤックルに乗って出かけていけばいつでも会えるのです。共に生きるとはそういうことなのでしょう。世界は二項対立ではない、勝ち負けではない。共存しよう、想い合おう…そういうお話だったんですね、これは。
ヤマイヌの娘、物の怪の少女と恐れられるサンがタイトルロールになっているのは、ブラフのようなものなのです。むしろ人間が心の内に飼う獣の方がよほど質が悪いのであり、人間が進化してそれを飼い慣らすことができるか、できれば滅することができるか…できなければやはり最後に敗れ去るのは人間なのだ、という物語なのではないでしょうか。
今、バカ政権のバカ政治に振り回されている我が国ですが、本当はもっと急ぎの、重要な、地球規模の問題がある。そういうことにも目を向けさせてくれる、まさに今上演されるべき作品だと思いました。
それが、歌舞伎という歴史ある芸能で、しかもスーパー歌舞伎というビギナーにわかりやすい形で、舞台になった…スピード、スペクタクル、ストーリー。なるべくしてなった、生まれるべくして生まれた企画だったのかもしれません。
そんな作品が観られて、本当に幸せです。次の観劇が今から本当に本当に楽しみです…!
團子ちゃん、本当にリアルアシタカです。朝日新聞かな?の子供記者からのインタビューで、自分はアシタカとは全然似ていない、と答えていましたが、でもまっすぐで真面目でひたむきで真摯で行儀良くすがすがしく気持ちの良い青年であるところ、そっくりだと思います。歌舞伎役者は年齢を超越するものなのかもしれませんが、でも今、この若さでこのアシタカに扮してくれて本当によかったです。
てかエミシの里にいるころの長髪ポニーテール、めっちゃ素敵なんですけど! そして大階段、似合うわー!! 背は高いとはいえ体格的にはそう違わないだろう壱太郎さんサンを俵担ぎにしちゃうところ、すごすぎました。ついでに言えばタカラヅカ式チューも…きゃー!
シシ神さまと二役、というのもおもしろいし、首を返してもらったあと、昇天していくようなさまを宙乗りで見せるアイディアもさすがでした。ホント怪我にだけは気をつけて、体調管理がんばって、集中力高くやっていってください…! きっと代表作にひとつになることでしょう。
壱太郎さんも獣と少女の両面の表現がおさすがでした。ただ、二の腕剥き出しってワケにいかないところが難しいですよね…宝塚歌劇の男役が女性らしさを隠すために腕はまず絶対に出さないのと同じことで、わさわさした毛皮を背負っていてもあの剥き出しの腕が少女らしさを見事に象徴するのだけれど、女方さんにはやはり御法度なのでしょう。
でも、芝居がよかった。ちゃんと少女で、いろいろ揺れているのが伝わりました。エボシに対しても真摯で紳士なアシタカに対して、明らかに妬いて怒っているようなくだりもあって、ちょっとキュンとしちゃいました。獣の育ちは早いし、朴念仁のお坊ちゃんなアシタカよりサンはずっとオトナなのではないかしらん…次に会うときにはアシタカが襲われ乗っかられてるかもしれません(笑)。
そして時蔵さんですよ、イヤ時蔵さまですよ! いやーヅルヨウダの芝のぶさんもだけれど、ホントまず声がイイ! もちろん美しい。しなやかに強く、光り輝いていました。これが初のスーパー歌舞伎出演ということでしたが、ホントいてくれてありがとう出てくれてありがとうオファーした人ありがとう…!と言いたいです。筋書のコメントにも唸らされましたので、次回観劇ではそこも確かめたいです。
猿弥さんに笑也さん、笑三郎さん、青虎さん、寿猿さんの頼り甲斐とありがたさは言わずもがな。門之助さんももちろん。そして中車パパもおさすがでしたよ…!
私にはまだまだわかりませんが、お弟子さんたちも大活躍でみんなにちゃんと台詞があったとのこと。そして侍が乗る黒馬とヤックルの中の人のお名前が筋書にちゃんと記載されていること、とても良きですね。
筋書がB5サイズとコンパクトで、そうお高くなかったのも良き。稽古場写真や衣裳パレード写真があったのも良き。いずれ舞台写真入りの版が発売されるそうですが、そっちも買っちゃうかも…権利の問題か、ロゴだけのグッズが多くて残念でしたが、舞台写真は出るといいなー…もちろん円盤も、シネマ歌舞伎もお願いしたい…!
しかしこれはいつか屋久島に行きたくなりますね。こうして世界は広がっていくんだなあ…ホント、良き観劇体験でした。



恒例の持ち込み幕の内弁当。親友のお土産の今半牛肉蓮根時雨煮のっけごはん、ミニトマト、レタス、大葉と茗荷とチーズの豚バラ巻き、胡麻塩入り卵焼き、茹でオクラの鰹節和え。ヤックルぬいと共に(^^)。