駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

韓流侃々諤々neo 28『太陽を抱く月』

 2012年MBC、全20話。J:COM BSで全20話で見ました。

 2013年にNHK BSで放送されたことがあるそうなので、多分その頃に一度見ているかと思います。当時まあまあ視聴率がよかったと評判の作品だったのではあるまいか…なので私も当時書いていた韓流ブログにはきっと感想を上げていたと思うんですよね。かえすがえすもあのブログのサービス終了は痛かった…まあ今回見て、特に記憶は蘇らなかったのですが(笑)、それはなんでも忘れる私としては通常運転です。
 ただ、古いな、そして韓ドラだなー、と改めて感じました。今だと同じ素材でももうちょっと軽やかに作る気がするし、華ドラでももっと軽やかになると思うんですよね。ラブコメに振る、とかそういうことではなくて、人間や人間関係の描き方が重くて湿っている気がするのですよ…「恨」の文化の国だなー、など思います。

 架空の李氏朝鮮時代もので、主人公はキム・スヒョン演じるイ・フォン。世氏、のち国王。ちょいと短気でわがままなところがありつつも、国を継ぐ自覚や民のための政をする気概や意思がある、良き王位継承者、王様なキャラでよかったです。こういう人物設定、実はなかなかないので。
 ヒロインはハン・ガイン演じるホ・ヨヌ。ヨヌはは漢字で書くと「煙雨」だそうで、素敵な風情がありますね。しかし私はハン・ガインが苦手なのでした…こーいう目がでっかい女優にツボることはまずないのです。弘文館を束ねる学者の娘で、世子妃候補に選ばれて…というような展開。たいてい武官が謀反とかクーデターを企んでいて、文官はいい人派でその娘がヒロイン、ってのはよくあるよなーとか思っちゃいますね。ハン・ガインは、もちろん作品やキャラクターにもよるのでしょうが、でっかい目をしていつも仏頂面というか、あまり笑わないタイプのヒロインを多くやっている印象で、それが愛嬌がなくて私はあんまり好きじゃない、というのもありますが、でもヨヌにはそれが似合っていたし、それでこの作品の方向性が決まったかな、とも感じます。ひょんなことから世子と知り合って、いろいろあってもちゃんと両想いになって、めでたく縁談も調って、なのに政敵の策謀で暗殺されそうになり、仮死状態で逃がしてもらったものの家族には死んだと伝えられちゃうし、自身も記憶をなくしてしまって…というなかなか難儀な展開で、のちに記憶が戻っても事態はそのまま元どおりとはいかないし、でも納得できない諦めきれない…となって、最終的にはむりくりハッピーエンドにはなるんだけれど、そこまでにかなり死人が出るし、なんかこういろいろと恨みがましいんですよね…イヤ彼女が不当な目に遭っていることは確かだし、怒っても恨んでも当然だとは思うのですが、ね。
 セカンドヒーローはチョン・イル演じる陽明君、国王の側室腹の長子でフォンの異母兄。称号が与えられて王族として扱われているものの、権力は持たせてもらえていないような存在で、でも本人はあまり卑屈じゃないし、兄弟仲もいいのでした。ただ、彼もまたヨヌに惹かれてしまったので…というドラマです。もうちょっと顔が好みのタイプの役者がやってくれていたら、萌え萌えで見たろうキャラですねー。
 セカンドヒロインはキム・ミンソ演じるユン・ボギョン。王の従兄弟で大臣を務めているユン・デヒョンの娘で、世子妃の座を狙う、まあ悪役令嬢です。子役はホント性格悪そうだったんですけど、キム・ミンソは清楚で聡明そうな美人で私は好きでした。意地悪モードも成人すると減っていて、夫の心がこちらに向かないのを耐えてじっと待つ感じがなかなかいじらしかったです。
 ヨヌの兄ホ・ヨムがソン・ジェヒ。科挙に主席で合格し、将来はフォンを支える逸材とされていたのに、フォンの妹ミナ王女に岡惚れされて儀賓とされてしまい、官職につけなくなってしまうというなかなか哀れな展開で、素敵キャラだっただけにこれもなんかちょっとかなり理不尽に感じましたねー…ラストのハッピーエンドに関してもややムリやり感を感じてしまいました。まあでも子供もいたしね…つーかそもそも王女への罰はアレで正しいのか、ってことでもあるのですが。
 フォンの護衛というか近習(ウンゴムと読む「雲剣」という、護衛官みたいな役職があるようですが、これは原作小説の創作かな?)キム・ジェウンがソン・ジェリム。もともと陽明君やヨムと親友で、フォンと四人でF4みたいになる未来もあったろうに…とせつないですね。寡黙なシゴデキ人で萌えキャラでした。
 王様や皇太后、ヒロインの父母などははよく見るアボジオモニーズでしたね。
 ペ・ヌリ演じる巫女のチャンシルが、本当に本当の霊能力の持ち主という設定だったんだと思いますが、ドラマとしては不発に終わった気がして残念でした。ユン・スンアのソルも、使用人というよりはヨヌの親友でのちには男装して警護したり仕えたりして…と萌え設定でしたが、どうも不発でもったいなかったです。ヨムに想いを寄せていたんだよね…別に殺されればかわいそうってことでもないので、無駄死に展開はなくてよかったと思うのですけどね。
 国巫チャン・ノギョン(チョン・ミソン)が、いろいろあってヨムの運命を見抜き、しかし…とある意味で暗躍するんだけれど、その理由の設定が弱いのもドラマとして惜しかったのかもしれません。恩返しとか復讐とかの問題と、星が定める運命の話はフェーズが違う気がするので…
 子役時代がまあまあ長いのもなかなかにナゾなドラマでしたが、まあおもしろくはあったかな。このころの名作・ヒット作の一本、とは言えるかと思いました。

 

 

雪『ポー』マイ初日雑感

 友会優先公演が当たったので、初日翌日の11時公演(と、お取り次ぎいただけたので15時半の回も)を日帰りでさくっと観てきました。
 花組版の感想はこちらこちら、梅芸版はこちら、原作漫画についてはこちらこちらなど。
 花組初演ではトップ娘役がシーラを演じましたが、今回はメリーベル。そして2番手スターがアランでしたが今回はポーツネル男爵役、という改変があり、合わせてエドガーとメリーベルのデュエットや男爵のソロが追加されていましたが、あとはほぼ花組版をまんま踏襲していたかと思います。細かいカットや追加はあったかと思いますが、気になるほど気づいたものは私はなかった、かな…
 私は原作ファンなので、初演初日も心配していたよりは良くできている、と思って安堵したものでしたが、日を追うにつれて漫画と違うところや足されたところが気になるようにはなった、か、な…今回もそれは同様の感覚でした。ただ、イケコが家族愛に振りすぎている、『ポーの一族』は家族の物語ではない、という意見が当時けっこうあって、でも私はそんなふうには感じなかったし、今回もそれはないかな、と思いました。ただやはり原作にないところで愛だの幸せだのの台詞が安易に出されると、そんな安売りしないでくれー!みたいには感じたかな…
 でも、なんせあーさエドガーが美しく、はばまいちゃんメリーベルも可憐でよかったので、よろしいのではないでしょうか、という印象です。ドレスもけっこう新調されたものが多い印象で、プログラムといいさすが特別予算がついているのか…!?とか思っちゃいましたよね(笑)。フィナーレも素敵でした。
 なので観ていたときはわりに満足していたのですが、帰京の新幹線で振り返るときくらいから、やはり配役と番手が変わったのだし、せっかくならもう少しがっつり手を入れてもよかったかもね…とは考えるようになりました。イケコが守りに入っちゃってるんなら、残念だなあと思います。
 かつて海坊主をやっていたとはとても思えない(笑)あがちアランのやんちゃ美少年っぷりがよかったこともあり、また私が原作ファンだからでもあるでしょうが、やはりこれはエドガーとアランの物語のように思えました。イヤ原作はあくまでエドガーの物語だとは思うんですけれど。つまり、せおっちやはばまいちゃんの出番がやっぱり物足りないのでは…?と思えたのです。
 たとえばお話が始まってすぐくらいのシーラの大曲は、ゆきちゃんのために作られたものだと思うのです。今回の小桜ちゃんももちろん素敵だったけれど、でももともとの原作ではシーラの来し方を語るのは男爵なので、ここは専科対応より2番手対応を取って男爵のソロにするとか、エドガーと男爵のデュエットに変更するとかしてもよかったと思うのです。後半に追加された男爵のソロは、やはりかなりトートツ感があったし、なんか言わずもがななことしか歌っていない気がしたので…
 あとは例えば、ディリー(音綺みあちゃん。なんかお歌は今イチだった気が…?)の出方がちょっと違っているので仕方ないんですけれど、原作ではエドガーが最初に血をもらうのは男爵からなので、それを今回は取り入れてもなかなかよかったと思うんですよね。あさせおの絡み、ファンは好きでしょ?
 同様に、これでご卒業の美穂圭子お姉様のお役は別に考えるとして、降霊術パートはばっさりカットして(これも『ホームズの帽子』なんかのオマージュだとわかってはいるのですが)、浮いた尺を『メリーベルと銀のばら』パートに回してはばまいちゃんにもっと芝居をさせてあげることもできたのでは…とかも考えるのです。はいちゃんもりっちゅもあんなの一瞬すぎるでしょう、ユーシスの母役のみなみんも…
 てかそう考えると、ホント役がない作品ではあるんですよねー。せおっちはともかくさんちゃん、はいちゃんなんかアレでいいの?と思ってしまうし…ホテルの支配人のしゃんたんはやや儲け役だったかも。テオがりっちゅだったのはツボで、エンリコはロッドがめっちゃよかったなー(笑)。でも『ダリ』でみんながめっちゃ騒いだ水月くん、どこにいた?って感じじゃん。ああもったいない…
 娘役も、妃華、愛羽、愛陽、愛空、夢陽、白綺ともったいなさすぎやしませんか…すわんもいつでもどこでも可愛いけれど、メインはクリフォード先生のあの患者役でしょ? うぅーん…
 ひっとんがやってたホテルのメイドは、杏麗奈ちゃんでした。マーゴットの妹エミリーが紗香にいなちゃん。配属されたばかりですがご縁あってちょっと推してる瞳花みれちゃんが、市場の大道芸人でした。細面で識別しやすく、メイドなんかにいるときもいい感じで良き。ロケットは下手から3番目。
 なのでスター芝居としては、正直言って物足りない。でも「ミュージカル・ゴシック」感はちゃんとあるし、原作を上手く舞台化している、とはやっぱり思いました。
 ただやはり展開が早いというか、クルクルパタパタしている印象はあって、これでエドガーの孤独とか、メリーベルへの愛とか、アランを求めたこ心情とかがちゃんと伝わるのかな…?とは不安になったかな。東京ではビギナーの知人を何人か同伴する予定で、「原作未読でもわかると思うよー」と言っちゃったんですけど、話はわかるけど肝心のテーマというか何がどうドラマチックなのかが上手く感じ取ってもらえない気もしてきていて、「やっぱり読んでおいて…」と言おうかな、など考えています。
 それでまた何十回目か何百回目かの原作再読をしたのですが、初演当時も予習のため、あるいは観劇後に初めてこの漫画に触れた層がけっこう「難しい、読みづらい、読めない、意味がわからない」というようなことを言っていたのがまあまあショックだったのですが、改めてさもありなんと思いますね。ネームもコマ割りも表現も、芸術的すぎて今の漫画と全然違う。ものすごく抽象的だったり、省略も誇張も大胆で、読者のイマジネーションをものすごく信頼して展開されていますが、そこが対応できない人にはホント何がなんだかわからないんでしょう。理詰めで「ここのこれはこういうことで、それを受けてこうなっていて、それでここをこう描くことがこうすごくて…」とかの解説は実は全部できるんですけど、でもそれじゃ伝わるってことにはならないんだよなー、とも思います。しょんぼり…
 まあでもまだあと数回観られる予定ですし、楽しんで観たいと思います。

 というわけであーさはホント綺麗で上手いなー。みりおエドガーは初期のフラワーコミックス版で、あーさエドガーは「月刊フラワーズ」で連載再開された『春の夢』以降のフラワーコミックスアルファ版、という意見も見ましたが、再開後の作画がみりおやれいちゃんに引っ張られているというのは萩尾先生も認めているところですし、みりおのほうが屈託ある芝居をしていて、あーさはもっとまっすぐな少年ぶりだなと感じたので、私は逆に感じました。
 トップコンビで兄妹を演じることになり、近親相姦的に見えないか、みたいなことをイケコはだいぶ気にしていたとも聞きますが、それはないかなと思いました。足されたデュエットの歌詞に「♪例え(これは開いたほうがいい。あえて漢字なら「仮令」が正しい)兄と妹でも」とあるのはまあギリかな。てかむしろ、アランに「恋は?」とか聞かれて「好きになったのは好きになっちゃいけない人」みたいにエドガーが答えるくだりの方が私は気に障りました。これはシーラのことだと思うけれど、エドガーのシーラへの意識ってそういうものだったろうか?と思うし、妹のことを言ってるんだったら言語道断です。というかエドガーはこのときですら百年は生きていてそれなりに老成はしているんでしょうけれど、14歳のまま留まり続けているとも言えるわけで、恋だの女の子だのと言われたら鼻で笑ってケッと言うくらいなんじゃないかと思うのです。性愛に未分化な時、という意味で14歳を萩尾先生は選択しているのだと思うからです。
 ましてエドガーは、わずか四つで乳飲み子の妹とふたりきりで捨てられた子供です。養い親に恵まれてそれなりに子供らしい日々を送りはしたものの、その後はわずか11歳で妹を穢させないために異形の者と恐ろしい契約を結び、そして14歳で永遠に時を止められてしまう…そういう「少年」です。メリーベルだけを「ぼくの命 ぼくの愛」と呼び、守り慈しみ愛している…彼女だけが傍らにずっといてくれる。けれど彼女をこの地獄に引きずり込んだ自分を自分が一番許せないでいる、その絶望と孤独よ…!
 メリーベルのほうは、エドガーと一緒だから幸せ、と言える。女性の成長、完成は早く、彼女は13歳にしてユーシスを愛し、ユーシスを失う経験をしているのです。エドガーよりずっと大人だし、強く、諦めがいいとも言える。女のしたたかさ、しなやかさを感じます。でもエドガーは同じようには考えられないで、ただウジウジウダウダしている、とも言えるのです…こういう不幸、絶望、地獄にいる人にとおりいっぺんの恋愛なんかちゃんちゃらおかしいっつーの、ってことだと思うんですよ。というか誰か他人と関わる、あるいは受け入れるなんて問題外、なのです。
 でも、アランに興味を持った、しかも固執した。単にメリーベルのための新しい血、獲物として…では、最初からなかったのかもしれない。子供らしい、元気な、生意気な、不機嫌な少年。自分がなりたくてなれなかったもの、のように思えたのかもしれない…メリーベルを失うことがなかったら、どこかで飽きてしまってエドガーは結局アランを仲間にしなかったかもしれません。メリーベルが死なず、アランも仲間になって3人で暮らす、という未来は絶対にありえなかったのではないかしらん…
 まあとにかく、なんかそんなちょっと浮世離れした、でもやはりよるべない子供な感じをあーさはとても上手く演じていたと思うので、世俗の情欲とも遠く見えて、よかったと思いました。
 はばまいちゃんも愛らしくて良きでしたね。でも歌は珍しくやや苦戦気味? そしてこれは初演の華ちゃんもですが、私はアランにプロポーズされたあとのメリーベルの号泣が嫌いで、まあ原作にはないからなんですけど、今回も観ていてなんかとても違和感ありましたね…メリーベルってこんな反応するかなあ?と思ってしまうので。デュエットはバリッとしたブルーのお衣装でタンゴっぽくて、キリキリバキバキ踊っていてとても良きでした。
 せおっち男爵は…なんかまだよくわかりません、すみません。宝塚歌劇の12でやるんだから、『ファントム』のエリックとキャリエールくらいになってもいいのかもしれないけれど、そんなでもないしなあ…ところで最後に原作どおりシルクハットを残すところに、私は今回やっと気づいた気がします。いったい私はいつも何を観ているのか…
 あがちんはホントやんちゃできかんぼうなアランで、愛しかったです。ゴンドラでのお衣装は復刻版ボックスのカバーイラストのものになりましたね。てか2階席から観るとクレーン部分が全然見えないので、本当に宙に浮遊して見えて、とても良きでした。どんなに出番が遅くても、やはりアランが出てくることで物語が大きく動き出すように見えるので、父と息子の物語には私には見えなかったなあ…スターの比重問題としては難しいところですね。
 2番手娘役格のまるちゃんと星沢ちゃんはジェインとマーゴット。逆でもイケるだろうけれど、ふたりとも上手くて安定の安心でした。
 今回から組長に就任のりーしゃが老ハンナで、メリーベルの死ではばまいちゃんをお姫様抱っこして引っ込んだのがさすが男役!とツボりました。
 そうそう、大老ポーが消滅しちゃうの、改変しませんでしたね。原作では「またどこかの地下室で眠る」だし、彼は連載再開後の作品群でも出番があるので、ここは変えるべきだったのでは…では誰を降霊するんだって話になっちゃいますが、でもあのアドバイス誰も聞いてないし(笑)。
 そうそう、かせきょーのクリフォード先生がヤングでチャラくてとてもよかったです! プロローグでの鮮やかな蹴りはちなつももちろん素晴らしかったけれど、かせきょーも負けてなくて「脚なっが! スタイル鬼良き!!」と観ていて目が喜びました。スチール写真もめっちゃよかった。でも万人が思う、「ジェイン、すわっちバイクにしとけ…」と(笑)。

 あとは、まあもしかしたらほのかエドガーが観たいとかあみちゃんエドガーが観たいとかあまとエドガーが観たいとかキョロエドガーが観たいとか思う人もいるかもしれませんが、再演としてはこれで打ち止めでいいのでは…とかは、思いました。別箱でやるならまだしも…やはり役が少ないし、トップコンビのラブロマンスを上演すべき宝塚歌劇としてだいぶ特例だと思うので。レパートリー演目のように受け継がれていくような作品…ではないかな、とも思うので。よく舞台化していますけれどね、でもやはり原作漫画が偉大なのでね…
 そんなことを考えつつも、観劇自体は楽しみたいですし、大事に拝見したいと思っています。そんな所感でした。

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一幕開演前

二幕開演前

 

 

こまつ座『マンザナ、わが町』

 紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA、2026年7月10日18時(初日、全席指定9,500円)。

 ところはアメリカ合衆国カリフォルニア州オーウェン郡、マンザナ。ときは1941年(昭和十七年)3月下旬の5日間。強制収容所に集められた日系アメリカ人女性5人が、プロパガンダ朗読劇『マンザナ、わが町』を上演する物語。作/井上ひさし、演出/鵜山仁。1993年初演、8年ぶり6度目の上演。全2幕。

 第二次世界大戦中の日系アメリカ人の強制収容に対し、1988年にアメリカ政府が公式に謝罪し、生存者への賠償を定めた「市民の自由法」が成立したことが契機となって書かれた作品だそうです。でも今回の上演は「違う意味を持ってしまった」と井上麻矢はプログラムの前口上で書いています。「国が憲法違反を犯したら、どのように謝罪していくのか。幾ら謝罪をしたからと言って、かけがえのない時も命も戻ってはこない」…というか、今のこの国はまずその必要な謝罪を全然しないので、市民としてはどう国に謝罪を、撤回を、廃案を求めていくのかを考えなければならない事態に陥っていますよね。最初の10分くらいは、マジで今の政府に向けて言ってやってる台詞でしょコレ?としか思えない台詞の応酬で、圧巻でした。ちょうどこの日、「めちゃくちゃな政治に抗議する国会前アクション」のデモが行われていた夜で、私はこの観劇のために参加できなかったわけですが、この作品の観劇は十分に現政権への抗議行動に値する…と思いました。
 5人は、ソフィア岡崎/sara、オトメ天津/増岡裕子、サチコ斎藤/栗田桃子、リリアン竹内/福井由峰、ジョイス立花/真飛聖。一世だったり二世だったりするし、英語や日本語の程度もバラバラで、実はけっこう違うところが多い5人です。引き続き前口上によれば「恐らく、この時代の日系人の縮図」で「それぞれの個性と思想と歴史は、時にぶつかってい」く。けれど単なる日本人と違ってみんなアメリカ文化を大なり小なり経験しているし、特に二世は自らを「アメリカ市民」と見なしているので(そして事実そうなので)、みんなちゃんと「自分とは違う考えを持つ人達の意見や思いに共感して、もしくは想像して、お互いの人生を理解しようと」する。「彼女達の部屋にだけはしっかりとした自治が育っていく」…なんともまぶしい物語でした。
 彼女たちは、お稽古している劇がプロパガンダであることをきちんと理解している。それを逆手に取ってやろうとすらしている。そもそもここに連行され収容されていることにまったく納得していない。暴力的に引っ立てられてきたわけではないようだけれど、それでも一方的に命令に従わされてきたわけで、それは不当なことである、憲法違反である、国のこの措置は間違っている、と考えている。おとなしく従っていればお上がなんとかしてくれるはず…なんて甘い考えは持っていない。ソフィアにいたっては毎日一通、大統領への抗議の手紙を送り続けている。国の間違いを冷静に指摘し、正すよう求める手紙を…
 この賢さ、強さがまぶしいです。そして私たち単なる日本人、つまりこの島国に生まれ育ち広い世界を知らないような甘ちゃんな人間にも、この姿勢は学べるはずだ、と思いました。本国から、あるいは支配階級から独立を戦い勝ち取ってきたような国の民たちと違って、私たちはそれこそ海に守られてだいぶ特殊な、ヌルい成り立ちでここまで来てしまったようですけれど、今、このままではかなり、だいぶ、ヤバい。目覚めなければ、学ばなければ、抵抗しなければ、戦わなければマジでヤバいです。ソフィアたち5人の姿に圧倒されているだけではすまないのです。あとに続かなくては…!
 そして、この舞台の終わり方も圧巻でした。このときから四十年以上経って政府が謝罪し、しかしその間に失われた命が多大だったことも示されて終わるのです。今回、ソフィアの移送は止められた。でもこの先はわからない。彼女たちが生きてこの収容所から解放されたのか、わからない。生きていても心身に傷を負っていなかったはずがない。字幕で表示された死者の数に、彼女たちも入っているのかもしれない…その残酷さ。それが戦争というものなのでしょう。舞台は並んでニコニコ笑う5人の姿を見せて暗転していきますが、打ちのめされるような思いがしました…こんなことを、二度と繰り返してはならないのです。
 5人の役者はみんな素晴らしかったです。特にsaraは、私はなんかお若いミュージカル女優さんなのかな、みたいな認識だったので、よもや文学座の俳優さんだったとは知らず、またこんなにもクレバーでシャープなお役を的確に演じ、長い台詞も砕けた台詞も明晰に語り聞かせられる人だったとは、と仰天しました。浪曲をこなしちゃう増岡裕子もさすがだし、謎多きキャラを演じる栗田桃子もさすがすぎました。福井由峰はまだ大学生で昨年デビュー、こまつ座初出演! 歌もよかったし、これまた仰天しました。
 そしてハリウッド女優役のまとぶんたら、もう…! 22歳には見えないしジョイスは22歳の役ではないのではないかとも思うのだけれど、浮いた美人っぷりと意外と性格が悪そうな芝居と、でも実はけっこう庶民派っつーかおもろいところはおもろくなってしまうところがホントまとぶんにぴったりでやり過ぎギリギリなくらいで、素晴らしいキャスティング!と膝を打ちました。
 これまた、上演され続ける意義がある作品だと思いました。そして観たからには、ただそれだけでなく、感じたこと得たことを用いて立ち上がらなければ…と改めて決意するのでした。めちゃくちゃな政治にNOを!!!

 

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もののけ歌舞伎マイ初日雑感

 スーパー歌舞伎『もののけ姫』(新橋演舞場)7月7日16時の回を、まず3階最前列どセンターのお席で観て参りました。ありがとう團子会…! 七夕の夜に團子アシタカに会いに行って、タタリ神として射貫かれたワタクシ(笑)。視線バッチリでございました。
 イヤしかしよかった! めっちゃコーフンしたし、なんなら泣きました。一幕90分二幕100分、まったく退屈しませんでした。私は歌舞伎もスーパー歌舞伎も全然たくさん観ていませんし、なんならジブリもそれほどたくさん観ていませんが、しかしコレはイイ!と断言できます。初日からこの日まで満員御礼となっているようで、おかげさまで(?)8月分のチケットもバンバン売れていて残り少なくなっているようですが、あるところにはあるものなので(^^;)、ちょっとでも気になった方は是非なんとかして観てみていただきたいです! 私も次の観劇が楽しみすぎます、次はもっと花道がよく見えるお席のはずなので…さらに千秋楽近くにもチケットを抑えてある自分GJ!と過去の自分を褒めたいです。何度でも観たい、あの森に行きたい、そして「会いに行くよ、ヤックルに乗って」と言われたい…!! はー、エモエモのエモでした!

 そもそも私はハヤオ信者ではあまりなくて、ジブリ映画で観ていないものもけっこうありますし、『もののけ姫』も多分映画館では観ていないと思います。なんかそそられなかったんだと思う…なのでテレビ放送時に数回見ただけだと思いますし、そのたびに「これってそんなに名作なんだろうか…」とずっと思っていました。私の見方が悪いのか、私にはこれがなんの話なのか、何を表現している物語なのかがよくわからなかったのです。
 だって、たとえばボーイ・ミーツ・ガールものでくっついてハッピーエンド、みたいな話ではないじゃないですか。あるいはタイトルロールはサンだけれど、彼女は森に捨てられた生け贄で山犬として育っていて、でもやっぱり人間、しかも少女なのです。それが例えば救われて、文明社会に復帰してハッピーエンド、というようなお話でもない。サンは森に帰ってしまう。でもそれでいいのか? そのまま山犬として生きていけるものなのか? 彼女は獣ではなくあくまで人間なのに、人間社会に背を向けて幸せなのか? そして、森の獣たちと里でタタラ場を営むエボシ御前たちが戦っていて、まあ自然と文明とか動物と人間の対立とかってテーマはわかるけど、でも私たちは文明社会に生きる存在じゃないですか。私たちは森では生きていけない。森や山を切り開き、木を切って田畑にし、火を起こして鉄を、プラスチックを作って生きている。だから私たちはどちらかというとエボシ派で、でもエボシさまは敗れて右腕を失ってしまうじゃないですか。勧善懲悪、ってのとは違うかもしれないけれど、でも人間って、文明って自然に、獣たちに負けちゃうものなの? そりゃ自然破壊は良くない、環境破壊は例えば温暖化みたいな現象になって文明社会を破壊しに来ている。だから共存は絶対に必要だ、でもこの物語は…え、ディダラボッチって、シシ神って結局ナニ? これはナニがどうオチていることになっているの…??
 といったあたりが毎度私が抱く感想で、なんかよくわからん…といつもなってしまうのでした。
 でも、この舞台を観て、わかった。説明の台詞が丁寧に足されているようで、人によっては煩わしいとか理屈っぽくなりすぎたと感じるのでしょうが、理屈っぽい私にはこれがシンデレラ・フィットしたのでした。やっと意味がわかった! そして今までほとんどミームとしてしか捉えられなかった「曇りなき眼(まなこ)」とか「生きよ、そなたは美しい」とかの言葉の意味がやっと、やっとわかったのでした。そして号泣した…! そんな観劇体験になりました。
 原作を深くリスペクトし、宮崎駿が描いていたことをよく汲んで、上手く舞台化した脚本家(丹羽圭子、戸部和久)の手腕に脱帽しましたし、二世市川猿翁が創世したスーパー歌舞伎のスピリットをしっかり受け継ぎ、受けた薫陶を大事に大事にして「師ならこうしたはず」と常に考えて考えて、ついに新作のスーパー歌舞伎を仕立てた演出家(横内謙介、上演台本も)にも、最敬礼したいです。映像やプロジェクション・マッピングなんかでもっといろいろできちゃうだろうところを、歌舞伎だからこそのあえてのアナログな人力でやっているところもとても好感が持てました。ナウシカ歌舞伎のときはあの音楽が和楽器で邦楽として演奏されることにとても感動しましたが、今回は久石譲のオリジナル音楽がほぼそのまま流れるのもとても良きでした(録音/日本音楽集団)。スーパー歌舞伎は「歌舞伎仕様の現代演劇」だそうなので、邦楽にこだわりすぎていないのかもしれません。でもツケはある(附打/大谷琢人)、これがまたイイ! もちろん和楽器もここぞという効果を上げていて、それもイイ! 台詞はほぼアニメのまま、つまりほぼ現代語です。まあ時代設定としてはなんちゃって室町時代だそうですが、これもわかりやすくてとても良きですね。
 原作ファンがファースト歌舞伎として観るには絶好なのでは…ホント、たくさんの人に観ていただきたいです。そして、私もまだまだ浅瀬でちゃぷちゃぷしているだけですが、是非たくさんの人に歌舞伎沼に浸ってほしい…映画『国宝』からでもなんでもいい、知らなかった新しい世界を知ることはホント楽しいことですよ、と強くお誘いしたいです(^^)。

 筋書によれば、1997年公開の原作アニメ映画はまだスタジオジブリができる前の80年に企画されていたものだとか。時代冒険活劇を目指していて、しかしいろいろあって時代劇であることとタイトル以外はほぼまったく違う内容の作品に作り直したんだそうです。
「中世の枠組みが崩壊し、近世へ移行する過程の混沌の時代 室町期を、二十一世紀にむけての動乱期の今と重ねあわせて」描く、「世界全体の問題を解決しようというのではない。荒ぶる神々と人間との戦いにハッピーエンドはあり得ないからだ。しかし、憎悪と殺戮のさ中にあっても、生きるにあたいする事はある。素晴らしい出会いや美しいものは存在し得る」と、95年脱稿の企画書に書かれていたそうです。
 この趣旨はすごく理解できます。それを私は映画からは読み取れなかったんだな…それを、アシタカの「分からぬ。だが、共に生きることはできる」という台詞から、「分からぬ事は面白き哉。今や暗い未来は想像しやすく、分からぬ事が恐ろしい。だから今、『もののけ姫』が上演される」と語る脚本家の手で舞台化されて、やっと私に伝わったのでしょう。今、もう一度、アニメを見直したいものです…
 そもそも、アシタカが蝦夷の若者だということを、私は理解していたのであろうか…?
 ヤマトとの戦いに敗れ、東と北の森の奥に隠れ住むエミシ。そこにイノシシが迷い込んでくる。単なる暴走した獣ではなく、凶暴なタタリ神になってしまっている。誰かが石火矢、つまり銃で鉛の礫を撃ち込んでいて、その痛みや怒りがイノシシを変えてしまったのです。アシタカが退治する。しかしタタリ神から呪いを受けて、右腕に痣が残る。彼もまた呪われたものとなってしまったので、村を出ることになる、というかほぼ追放される。いずれは族長となるとも目されていた少年なのに…彼は呪いを解く方法を見つけるため、そして獣をタタリ神に変えるような人間の愚かな行動を止めるため、西へ向かう。カヤだけが見送り、玉の小刀?を渡す…
 …そうだったのか! なんかこの前提がそもそも理解できていなかった気がするよ私…そしてこのカヤがくれた贈り物をのちにアシタカはサンにあげてしまうので、女からもらったものを他の女に渡すなどヒーローとしてあるまじき行為!と視聴者からさんざん糾弾されてきたかと思いますが(笑)、なんかねー、舞台で観ると、團子ちゃんがやると、贔屓目かもしれないけど全然スルーできたんですよね(笑)。團子アシタカはホントまっすぐなので、それはある意味で何も考えていないとも言えるんだけど、カヤに対しても色恋の感情があったかは怪しくて、ただ案じてくれている好意をそのまま受け取って、お守りとして身につけ続けて、それはもうすっかり自分のものになってしまったので、だから自分がサンを案じる心を乗せてサンにそれを渡しただけなんですよね。いやぁこの絶対的ヒーロー感、ホント素晴らしかったです…!
 だってタイトルロールはサンなんだから、これはサンの物語でサンが主役で、なのにアシタカ團子がファーストクレジットで主役をやるってのはオトナの事情すぎないか? たとえば團子ちゃんが女方としてサンをやるって線はなかったのか? とかまで考えちゃったんですよ、私。少女漫画を宝塚歌劇にするときにヒロインの相手役の男性キャラを無理やり主人公にするような、それほどむりくりではないにしてもやはりどうなの?みたいなのを勝手に案じていたのですね。
 でも、サンは意外と出番がない。そして実はなかなか共感しづらいキャラクターです。森に捨てられて山犬に育てられて獣の自覚を持つ少女だった、という経験のある観客はなかなかいないはずだからです。サンのように人間を嫌いきることも難しいですよね、だって私たちは人間なんだもの…
 だから、これはアシタカの物語なのでした。彼は状況に流される中で火の粉を払ったり、やむなく何かを選択しているだけで自分から動いているようには見えないところはあるし、芝居としても受け身だとは思います。一番能動的に動いているのはエボシさまなのかな? それでも、アシタカが繋ぎとなってすべてが動いている物語なんだな、ということもやっとわかりました。
 ヤマトでは、人々が森を切り開いて暮らしている。タタラ場、つまり製鉄所はヤマトではそう珍しいものではないようですが、普通は女人禁制で男たちが働いている。でも、タタラを踏むことはもちろん肉体労働ではあるけれど、男性でないとできないというほどの重労働ではない。大人数が息を合わせて根気強く長時間続ける必要があるので、そういうことはむしろ女性の方が得意かもしれません。エボシ御前は自分のタタラ場では女たちに働かせて、タタラ場を男子禁制にしている。男たちはみな牛飼いで、田畑の世話を担当しているのでしょう。女たちは自分たちの仕事に誇りを持っていて、鼻っぱしらが強く、男たちを尻に敷いている。エボシは遊女では食えなくなったような年嵩の女たちを助けるためにこうし始めたのかもしれません。自身が女性であるということもあるけれど、彼女はとても優れた為政者で、よそよりずっと進んだ自治体を作り上げているのでした…
 これも私はちゃんと理解していなかったかもしれません。エボシさまの里だけが特殊なのではなく、この世界では女たちが働き、女の地位が男より高いのだと思っていた気がします。じゃあジコ坊たちだのアサノの侍たちだのが男ばかりなのはなんなんだ、って話なのですが、私はそのあたりもよく理解していなかったのでしょう。
 エボシは、みんなが感染を恐れて忌み嫌う癩病患者たちも保護して、仕事を与えている。まあ仕事といっても銃を作らせていることには問題があるかもしれません。優しい憐れみというよりは功利的、現実主義的なところもあるのでしょう。でも現代の視点で見ても、素晴らしい優れたリーダーです。
 でも、アニメはなんか悪女ふうじゃないですか。クシャナとかもそうだけれど、清濁併せ呑んで王道を突き進むような強い女は、悪く描かなくちゃいけないって男社会の法則があるんですか?とか言いたくなります。なので私はこのキャラの立ち位置もよく理解できていなかったんだと思います。
 エボシの里はシシ神がいる森に近く、モロ一族、そしてサンとの小競り合いが続いている。人間/文明と動物/自然との対立…そこに簡単な正解はない。もちろん森や動物たちの方が人間が社会を築き始めるよりずっと以前から存在していたのであり、優先権があるのかもしれない。後発の人間はわきまえて、端でそっと生きさせてもらうことに甘んじるべきなのかもしれない。でも人は言葉を話し、文字を操り、火を手に入れて発展していく…その欲望はもっと、もっとと暴走していく。
 言葉は、森の獣たちも持っていました。彼らもまた神を持ち、言葉を持っていたのです。でもだんだんも言葉をなくして闇落ちしていく獣たちが増えていっている。乙事主が盲目的どころか真に盲目になって、突進していってしまうのはその一例です。そんな、サン対エボシの戦いに、アシタカが割って入る…
 一方で、森を取り戻すために愚直に木を植え続けている猩々たちがいる。あるいはミカド、あるいはアサノの暗躍…そういったことが絡み合ったドラマだったのです。それであのラストに至るのでした。
「会いに行くよ、ヤックルに乗って」
 ヤックルはアカシシという獣で、森に棲むものではなく、人の家畜となって長いのでしょう。乗騎として人間に使役され、飼われ、馴れて懐いて、もう言葉は話しません。でも人の言葉をわかっているようではある。どうやってかはわからないけれど、サンはアシタカに関する話をヤックルから聞いています。坊主憎けりゃで人間に関するものはなんでも嫌い憎んでいそうなサンも、ヤックルのことは嫌がらない。里の人間と森の獣のあわいに立つ、こういう存在がいるのです。
 だから、サンは森で生き、アシタカはエボシのタタラ場の再建を助けて里で暮らすことにしても、会うことはできる。離れて暮らしても、想い合えるし、ヤックルに乗って出かけていけばいつでも会えるのです。共に生きるとはそういうことなのでしょう。世界は二項対立ではない、勝ち負けではない。共存しよう、想い合おう…そういうお話だったんですね、これは。
 ヤマイヌの娘、物の怪の少女と恐れられるサンがタイトルロールになっているのは、ブラフのようなものなのです。むしろ人間が心の内に飼う獣の方がよほど質が悪いのであり、人間が進化してそれを飼い慣らすことができるか、できれば滅することができるか…できなければやはり最後に敗れ去るのは人間なのだ、という物語なのではないでしょうか。
 今、バカ政権のバカ政治に振り回されている我が国ですが、本当はもっと急ぎの、重要な、地球規模の問題がある。そういうことにも目を向けさせてくれる、まさに今上演されるべき作品だと思いました。
 それが、歌舞伎という歴史ある芸能で、しかもスーパー歌舞伎というビギナーにわかりやすい形で、舞台になった…スピード、スペクタクル、ストーリー。なるべくしてなった、生まれるべくして生まれた企画だったのかもしれません。
 そんな作品が観られて、本当に幸せです。次の観劇が今から本当に本当に楽しみです…!

 團子ちゃん、本当にリアルアシタカです。朝日新聞かな?の子供記者からのインタビューで、自分はアシタカとは全然似ていない、と答えていましたが、でもまっすぐで真面目でひたむきで真摯で行儀良くすがすがしく気持ちの良い青年であるところ、そっくりだと思います。歌舞伎役者は年齢を超越するものなのかもしれませんが、でも今、この若さでこのアシタカに扮してくれて本当によかったです。
 てかエミシの里にいるころの長髪ポニーテール、めっちゃ素敵なんですけど! そして大階段、似合うわー!! 背は高いとはいえ体格的にはそう違わないだろう壱太郎さんサンを俵担ぎにしちゃうところ、すごすぎました。ついでに言えばタカラヅカ式チューも…きゃー!
 シシ神さまと二役、というのもおもしろいし、首を返してもらったあと、昇天していくようなさまを宙乗りで見せるアイディアもさすがでした。ホント怪我にだけは気をつけて、体調管理がんばって、集中力高くやっていってください…! きっと代表作にひとつになることでしょう。
 壱太郎さんも獣と少女の両面の表現がおさすがでした。ただ、二の腕剥き出しってワケにいかないところが難しいですよね…宝塚歌劇の男役が女性らしさを隠すために腕はまず絶対に出さないのと同じことで、わさわさした毛皮を背負っていてもあの剥き出しの腕が少女らしさを見事に象徴するのだけれど、女方さんにはやはり御法度なのでしょう。
 でも、芝居がよかった。ちゃんと少女で、いろいろ揺れているのが伝わりました。エボシに対しても真摯で紳士なアシタカに対して、明らかに妬いて怒っているようなくだりもあって、ちょっとキュンとしちゃいました。獣の育ちは早いし、朴念仁のお坊ちゃんなアシタカよりサンはずっとオトナなのではないかしらん…次に会うときにはアシタカが襲われ乗っかられてるかもしれません(笑)。
 そして時蔵さんですよ、イヤ時蔵さまですよ! いやーヅルヨウダの芝のぶさんもだけれど、ホントまず声がイイ! もちろん美しい。しなやかに強く、光り輝いていました。これが初のスーパー歌舞伎出演ということでしたが、ホントいてくれてありがとう出てくれてありがとうオファーした人ありがとう…!と言いたいです。筋書のコメントにも唸らされましたので、次回観劇ではそこも確かめたいです。
 猿弥さんに笑也さん、笑三郎さん、青虎さん、寿猿さんの頼り甲斐とありがたさは言わずもがな。門之助さんももちろん。そして中車パパもおさすがでしたよ…!
 私にはまだまだわかりませんが、お弟子さんたちも大活躍でみんなにちゃんと台詞があったとのこと。そして侍が乗る黒馬とヤックルの中の人のお名前が筋書にちゃんと記載されていること、とても良きですね。
 筋書がB5サイズとコンパクトで、そうお高くなかったのも良き。稽古場写真や衣裳パレード写真があったのも良き。いずれ舞台写真入りの版が発売されるそうですが、そっちも買っちゃうかも…権利の問題か、ロゴだけのグッズが多くて残念でしたが、舞台写真は出るといいなー…もちろん円盤も、シネマ歌舞伎もお願いしたい…!
 しかしこれはいつか屋久島に行きたくなりますね。こうして世界は広がっていくんだなあ…ホント、良き観劇体験でした。

 

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三階最前列どセンター席からの眺め

筋書とお弁当とヤックルぬい

恒例の持ち込み幕の内弁当。親友のお土産の今半牛肉蓮根時雨煮のっけごはん、ミニトマト、レタス、大葉と茗荷とチーズの豚バラ巻き、胡麻塩入り卵焼き、茹でオクラの鰹節和え。ヤックルぬいと共に(^^)。

 

『エレクトラ』

 新国立劇場オペラパレス、2026年7月5日14時(C席アトレ先行9,900円)。

 屋敷の外をうろつくエレクトラ(アイレ・アッソーニ)の姿を認めた5人の下女と監視の女が、それぞれにエレクトラとの確執を語る。かつてミケーネの王アガメムノンは絶世の美女ヘレネの姉クリテムネストラ(藤村実穂子)を夫タンタロスから奪い、妻とした。娘イフィゲネイア、エレクトラ、クリソテミス(ヘドヴィグ・ハウゲルド)と息子オレスト(エギルス・シリンス)がいる。神々の要求に従ってイフィゲネイアを生贄にした夫を恨んだクリテムネストラは、同じく王を恨むエギスト(工藤和真)を愛人にして、その助力を得て帰国した夫を浴場で殺した。オレストは王宮を離れ、エレクトラは留まっていたが、王女らしい扱いを受けることがなく…
 台本/フーゴ・フォン・ホフマンスタール、作曲/リヒャルト・シュトラウス、指揮/大野和士、演出/ヨハネス・エラート。ドイツ語上演、全一幕。新制作。

 私はトロイア戦争オタクで、そこに連なるアトレウス王朝ものは機会があればいろいろと観ています。こちらなど。

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 でもこのオペラは初めて観ました。CDなどでも聞いたことがありませんでしたが、キャッチーでメロディアスなアリアがあるようなタイプの作品ではなく、ずっと歌ってるか音が鳴っているかで途中に拍手が全然入らないタイプの構成なのですね。なのでなんか、どこが盛り上がりなのか…という気はしました。
 あとは衣装やセット(衣裳/ノエル・ブランパン、美術/ハイケ・シェーレ)もちょっと現代ヨーロッパふうのテイストになっていて、ブランコが出てきたりピエロがいたりで、それは何か抽象的な暗喩なのかなんなのか…残念ながら私にはよくわかりませんでした。
 父を殺した母を殺す姉弟の物語…というのもなかなか感情移入しにくいものだと思うので、上手く説明したりフォローしたり盛り上げたりしてほしいものなのですが…うーんなんかよくわかりませんでした。
 前列に、指揮者かな?みたいにずっと揺れながら、というかほとんど踊りながら観ている老紳士がいて、目障りだな…と思っていたら、音合わせのときだけで、本編が始まったら静かになったので、気持ちよくお休みだったのかもしれません。カーテンコールになったら、またさもパトロンかな?みたいに大きく乗り出して拍手していました…いろんなお客がいるものです。
 まあ、なんでも経験ではあるのでした(^^;)。

 

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