駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『ご臨終』

 新国立劇場、2014年11月12日マチネ。

 ひとり暮らしの叔母(江波杏子)から何十年も音信不通だった甥(温水洋一)のもとに「年齢だ、もうじき死ぬ」との手紙が届く。甥は取るものもとりあえず駆けつけて積極的に世話をし始めるが、叔母は打ち解けない様子で…
 作/モーリス・パニッチ、翻訳/吉原豊司、演出/ノゾエ征爾。1995年カナダ初演、2006年日本初演。全2幕。

 ふたり芝居なのですが、しゃべるのはほぼほぼ中年男で、老婆はほとんどしゃべらないというおもしろい構造です。
 また、暗転がやたらと入ります。暗転というのはその間に時間を経過させたり場所を転換させたりするためのものだと思っていましたが、場所は老婆の家からまったく動きませんし、時間も暗転の前後でまったく経っていない、瞬きみたいな意味しかないときがあるのでした。
 でもその不思議な効果に慣らされていたのが、最後に効いていた気がしました。
 私は舞台のラストで、役者が舞台に残っている状態で幕が下りたり暗転したりしてお話が終わったとき、カーテンコールのために緞帳が上がったり再びライトが点いたりしたときには、役者はすでに袖に一度ハケていて、そこから舞台に戻ってきてお辞儀なりなんなリしてもらいたい派なんですよ。ずっと板についたままで、ふっと役でいるのをやめて、ニコッとこっち向いて笑ったりしてもらいたくないワケ。切り替える時間が欲しいのです。
 でも今回は、それがなくて、そしていらなかった。
 最終場のひとつ前の場面で、中年男はベッドに置かれた鉢植えを見つめています。その土には老女の灰が混ぜられているのでしょう。球根を植えたので土は少し真ん中が盛り上がっています。
 ごく短い暗転があって、再び舞台が明るくなると、男は身じろぎひとつしていませんが、鉢には芽が吹いています。老女がなりたいと言っていたアマリリスの芽が出ているのです。ああ、これが結末だ、とわかりました。
 そこから、男はゆるりと立ち上がり、部屋を横切ってベッドの先へ行き、舞台奥に手を差し出しました。で、ハケていた老女を呼び寄せました。
 現われたのはもちろん幽霊なんかではなくてただの江波さんで、彼女を迎え入れたときには男はもうただの温水さんになっていました。でもそれがもう本当に自然で劇的にスムーズで、嫌な感じがまったくしませんでした。私には初めての経験でした。
 鮮やかで、素敵でした。
 お話ももちろん、コミカルだったりブラックだったり、だまされましたし楽しくバレましたし、人は誰でもいつかは必ずひとりで死ぬのだけれど、でもやはり誰かと最後までつながっていられたら幸せなのかもしれないな…などと考えさせられました。
 私は幸いにしてこの歳になっても本当に親しい人との死による別れを経験していません。これで心構えができるものでもないし、そういう必要もないのかもしれないけれど、やはり考えていかなくてはならない問題ではあるよな、自分の死も含めて…なんて、思いました。