PARCO劇場、2021年11月12日18時。
イギリスで最高峰の医療が行われる施設のひとつ、エリザベス研究所。その創設者であり、所長を務めるルース・ウルフ(大竹しのぶ)は、自ら妊娠中絶をしようとして失敗し、敗血症を発症して緊急搬送されてきた14歳の少女エミリー・ローナンを看取ろうとしていた。そこに、「少女の両親からそばについていてほしいと頼まれた」というカトリックの神父、ジェイコブ・ライス(益岡徹)が現れる。彼の言葉が本当か確認できないのを理由に、ルースはライス神父の集中治療室への入室を拒否し、臨終の典礼を授けるために入室しようとする神父と揉み合いになり…
作/ロハート・アイク、翻訳/小田島恒志、演出/栗山民也、美術/松井るみ、照明/服部基。1912年にアルトゥル・シュニッツラーが発表した『ベルンハルディ教授』を翻案し、2019年ロンドン初演。全2幕。
原作の戯曲は当時実際に起きた事件を元に書かれたものだそうで、それをさらに、主人公を男性から女性に変えて、医療と宗教の対立だけでなく人種やジェンダーなどの問題も盛り込んだ、とても現代的な作品になっていました。
病院のカンファレンスルームらしきごくシンプルなセットは、けれど大きなテーブルと何脚かの椅子が乗った中央の盆がゆっくり回るだけで静かで恐ろしい不穏さを演出し、かと思えばその蛍光灯みたいな青白い灯りが赤っぽく黄色っぽく温かな照明になっただけで西日が差し込むルースの自宅リビングの大きなテーブルに変わり、近所に住む少女サミ(天野はな)が宿題をしたり寝転んでくつろいだり、「パートナー」のチャーリー(床嶋佳子)が現れて隅のソファに腰掛ける様子を見せたりします。やがてこのチャーリーは亡霊のような、というかルースの記憶の中だけの存在だということがわかってきます。舞台はいとも簡単に、変幻自在に時も場所もあざやかに越えるのでした。
1幕はとてもスリリングでおもしろく感じられ、興奮しました。でも2幕はちょっと「そっち?」という感じがしました。まず、テレビのディベート番組にルースが出演する、という流れでこの作品が描きたいことが、私にはちょっとよくわかりませんでした。和をもって貴しとし、常に相手や周りの気持ちを忖度し迎合し調整し波風立てないよう個人的な意見の表明はなるべく差し控える日本人気質が私の中にも確かにあって、こういう対立のための議論、みたいなものに鼻白んでしまうからかもしれません。さらにラスト、オチがない…とは言わないけれど、ちょっとやりっぱなし、放りっぱなしで終わったように私には感じられて、かつそれはルースを断罪しているようにも思えたので、ますますちょっと「ええぇ、そっち?」としょぼんとしてしまったんだと思います。サミが帰ってくるとか、ルースに対するなんらかのフォローを期待してしまっていたんだと思います。実際にはもちろんなかなか結論が出るものではないし、何が正しかったのかとかよかったのかとか簡単には語れないものなのかもしれませんが、でも普通は観客は主人公に感情移入して作品につきあうので、これだとちょっと「おおぉ…」となりませんかね? それとも単なる解釈違いかな?
人間である前に医者である、ということははたしてできるものなのでしょうか。この作品は「私は医者です」というルースの台詞で始め、そして終えていますが、それでいいのでしょうか。確かに医療において患者と医師はただ患者と医師であることだけが重要で、それ以外の細かいところまで合わせていこうと思ったらとんでもなく大変だし実際不可能になるので(カトリックの患者にはカトリックの医師を、女性の患者には女性の医師を、太っている患者には太っている医師を、獅子座の患者には獅子座の医師を…?)、ただ医療行為の名の下に、ただ肉体と科学に対して真摯に向き合う…というのは、わかります。でもやはり肉体はただ肉体単体では存在できなくて、それをを司る脳とか精神とか心とかとは不可分で、そこにいわゆる人間性が宿るのであって、もちろん理性もあるんだけれど感情とか偏見とかからも不可分で逃れられません。
神父はルースが小柄な女性であることを見て、次にブライアン(久保酎吉)が現れたときに彼を彼女の上司とみなしました。実際にはルースがこの施設の所長であり創設者でもあったにもかかわらず、「もっと上の人」を求めたのです。それに私たち女性観客がカチンときたように(確かにそう演出されていると思います)ルース自身だって、さんざんそういう目に遭ってきて慣れていたとしてもそれでも毎回自然にカチンとくるのが人というものであって、それで意地になった部分は絶対にあるはずなのです。もちろんルースが中絶経験者であったことも影響したかもしれません。患者はカトリックの両親の元に育っていて、おそらく中絶とは非人道的なものだと教え込まれていて、だから妊娠を言い出せなくてさりとてどうにもできなくて、独力でなんとかしようとしてかえってひどいことになり、今死のうとしている。そのことに対する無力さ、虚しさ、怒りがルースには絶対にあったことでしょう。そうしたことがなくても、患者の意思が確認できない限り家族でもない面会人を集中治療室には入れられない、でもこれらのことがあればなおさら、だったはずなんです。だからカトリックの神父なんざ入れられない。ルースの言動はすべてがただ「自分は医師だから」によるものではない。医師である前に人間だからです。
でもこの作品は、主人公がそれを認めて終わるような物語ではなかった。ルースは冒頭でもラストでも「私は医者です」と言い、そういうタイトルの作品で、でも医師免許の十年間の停止が宣告されて終わります。ルースが医師として復帰することはこの先おそらくない。サミは帰ってこない、チャーリーはもっと帰ってこない。もちろんエミリーも、ではあるのですが…しかしそれでは、あまりに、ノーフォローすぎやしませんかね…?
科学も日進月歩していて、心が身体に及ぼす不思議な効果や影響なんかも検証されてきて、だから宗教が何かを癒やさないとも限らないわけで、そういう意味では「絶対」はない。この世の唯一の絶対は、「死んだ者は生き返らない」ということだけ、なのでしょう。アルツハイマーに罹り、それを気に病んだチャーリーは自殺して、二度と帰らない。それだけが真実で、絶対なのです。もちろんルースはその哀しみをいつか乗り越えるのかもしれない。幸せだった頃の記憶だけが残り、ルースを生かすのかもしれない。でもチャーリーが帰らないことに変わりはなく、チャーリーの未来は失われたままなのでした。それは確かに悲しく、絶望的なことです。そこに救いはない。
もちろんだからこそルースは認知症の治療に邁進し、この施設を建てたのかもしれませんが、チャーリーはそれを信じないままに自ら死を選んだ、という事実に変わりはありません。医療にも救えないもの、科学にもできないことはある。
「自分が何者であるかは、謝るようなことじゃない」、それはそうでしょう。けれど愛せなかったら? 愛されなかったら? それはほとんど無意味なことと同じだと言うのは言いすぎでしょうか? そこに、フォローが欲しい気が私はしたのですが…甘い、のかなあ?
しかし役者はみんな本当に素晴らしかったです。幕間に近くの席のおっさんが「みんな医者に見えない、配役ミスではないか」みたいなことを同伴者に言っていたのが聞こえてきたのですが、それってむしろ配役の、役者の勝利では、という気もしました。てか医者っぽいって、何? 医者っぽかろうがぽくなかろうが医者は医者で、この役者たちもたとえ医者っぽく見えていなかったとしても医者の役で、それで芝居をしていて成立しているんだから、それが演技ってことなんじゃないのかなあ?
あと保険担当大臣役の明星真由美、素晴らしかったですね。若手医師の那須澟もよかった。というかこの役に名前がついていないことが恐ろしいですよね。もとの戯曲ではそれこそ性別すらわからないんだそうです。そこに何かのキャラクターは与えられていない。病院だから、医者のキャリアとか能力とかだけが問題なのであって、ここではあくまで新米だというだけの扱いで、けれど職場に爪痕を残そうとしている若者、な感じ…絶妙でした。広報責任者役の村川絵梨もとてもよかった。てかホントみんなよかった。てか神父とエミリーの父親役が二役とかどうなの、ホント怖い。
戯曲には黒人の役を白人の役者が演じるよう指示があるそうで、それはオール日本人でやってしまうとなおさらワケわからないことになるんだけれど、そういう謎の曖昧さの中でもあるのが謎の差別なわけで、これはおもしろい効果を上げているな、と思いました。
女性で、ユダヤで、レズビアンで、医師で。男性で、黒人で、カトリックで、神父で。自ら選択したこと、選択できたこととそうでないものとがあって。個性であり、帰属性である「アイデンティティ」をお互いどこまで、どう尊重できるのか…人類の命題なのかもしれません。