駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『モーツァルト!』

 帝国劇場、2014年11月18日ソワレ、20日ソワレ。

 2005年に中川アッキー版を観たときの感想はこちら
 そんなワケでそんなにいい印象を持っていなかったのですが、世間の評判は良くてその後も何度か再演されていたので、久々にまた出かけてみました。
 先に山崎育三郎、ソニン、香寿たつき回を観て、後から井上芳雄、平野綾、春野寿美礼回を観ました。今回のナンネールは花総まり。あとは主要キャストは前回観たときのまま…かな?
 先に観たほうがフレッシュでストレートで若々しく、後に観たほうがややくどく感じられました。歌い方のせいかもしれないけれど。
 芳雄くんはこれでヴォルフガング役を卒業と言われているそうですが、確かに彼にはもう役が小さくなりすぎているのかもしれません。
 ソニンは私は好きで、久々に観られて楽しかったです。パンチがあってよかったなあ(でも今スカステで歌っているコロちゃんの「ダンスはやめられない」も素晴らしいんだなあ)。
「星金」は圧倒的にたぁたんがよかったな。レオポルドと対峙する、パトロネスであり聖母であり白き魔女であるこのキャラクターをどう捉えどう演じるか、も、私にはオサの役作りよりたぁたんのものの方が好みだったので。もちろん単に私がオサよりたぁたんの方が好きだというのもあるのかもしれませんが。オサは顔が小さすぎてびびったわあ…

 『エリザベート』にはもうこちらが慣れてしまっているだけで同じことをやっているのかもしれませんが、しかしやはりかなり断片的に見えて、ドラマとか芝居の部分がもっと欲しい気が個人的にはしました。
 ただ、前回観たときよりはずっとおもしろく見たかな。ヴォルフガングとアマデが乖離して見えなかった、ちゃんとひとりの人間に見えたのです。そして彼は小さいころからある意味でまったく変わっていない。天才的な音楽家であり、一方でごく普通の少年なのです。
 だから彼が望むことは、ただ普通に、正当に扱われること。天才児と持ち上げられちやほやしてくれるんでなくていい、大きくなったらただの人になるとかの陰口も言われたくない。ただ普通に愛してもらいたかっただけなのです。
 なのに父親も、もしかしたら姉も、そうは接してくれなかった。自分が作り出した天才児としてコントロールしようとし、大司教に売りつけようとし、故郷に縛りつけようとした。自由にさせてくれなかった。
 それが嫌だったんだよね。ただ普通に愛されたいだけ、ただ自由にありのままの自分でいたいだけ。
 それを邪魔したのは彼の天才かもしれないのだけれど、それは自分とは切り離せない。誰も自分からは逃れられない、自分の影からでさえも。
 でも彼は自分の影から逃れられなくて、それで悲しく死んだのではないと思いました。アマデを邪険に扱うこともあったけれど、でも常に一緒で、楽しく作曲し、連れ添って生きてきた。自分の才能が思いとか邪魔だとかは思ったことはなかったはずです。それは彼の一部なのだから。ただそれのみが評価されそれに縛られることには苦しんだ。それは天才ゆえだったかもしれません。
 でもその天才があったからこそ、彼と彼の楽曲は何百年たっても愛され続けているのです。父や姉や妻からは十全に生えられなかった愛が、今も彼に捧げられているのです。
 そして人はみな天才であろうとなかろうと、自分自身からは逃れられない。自分と折り合って生きていくしかない。たまたまヴォルフガングの命はその真実に気づいたときに終わってしまったけれど、たとえば凡人の私はそのことに早くから気づいていてお気楽に生きてこられている…これはそんな物語なのかな、と思いました。